ぼちぼちいこか
病気療養中だけどぼちぼち明るくいきたいネ♡

桜の樹の下

「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」
この衝撃的な言葉から始まる梶井基次郎の短編を早熟な友人から読ませられた中学生のあの瞬間から、私は美しい満開の桜の樹を見ると、すぐ次には「死体」を連想してしまう…という年月を重ねて来てしまいました……。
やっかいな固定概念として、今まで私にまとわりついてきたこのイメージは、時には妖しく私を幻想の世界にも誘ってくれますが、それでも、美し過ぎるものの向こうには必ず「死」というぼんやりとした絶望があるようで、心が晴れることはありませんでした。それでも、毎年、桜の樹を求めるように、あちこちへと桜見散歩をしてしまうのは、不思議なものですが(笑)。

そして、去年の大震災…。
あまりにたくさんの生命も生活も喪い、日本中が世界中が哀しみに包まれました。
そこにはもはや、「祈る」ことしか出来ない私たちがいました。
その無力感と祈りを体験したせいでしょうか、去年から桜の樹へのシミのようにこびりついた「死体」というイメージは、あまり大きな力を私に働きかけなくなってきていることに気づいたのです。
今でも「満開の桜の樹」=埋まっている「死体」というイメージはまず私の脳裏に即座に出て来るのですが、それにも増して、
「ああ、どんなことが起こっても、こうして桜の樹は咲いてくれる…」という、ありがたい気持ちが出て来るのです。
自然は、大震災のように猛威をふるい、私たちに絶望や哀しみや苦しみを与えることもありますが、それ以上に豊かさを与えてくれたり、美しさで包み込んでくれることもあります。それが、自然というものなのでしょう。

先日ご紹介した『さよならのあとで』という本との出会いも、今年の桜の樹と向き合う私に大きな影響を与えたかもしれません。(本『さよならのあとで』
この本のおかげで、「死」というものがそれほど絶望的なものに思えなくなってきたからです。

梶井基次郎の言葉から離れてみても、
活き活きとした生命そのものが花にはあるので、
こうして惹かれるし、切なさもフと感じてしまうものです。
それは、「死」や「喪失」というものが、当然のことながら生命のすぐソバにいることもどこかで感じるからでしょう。
でも、喪う悲しさが存在するのは、こうした活き活きとした生命のよろこびがあるからこそでしょう。
そのよろこびが消える訳じゃなく、喪ったと思った後でも、自分たちの中に共に今でもそれはあり続けていてくれることに、この本を通して気づいたので、それほどせつなくなくなったのかもしれません。
それは、去年から私の中でもうひとつ、大きな変化が起こっていることからも、わかります。
以前は人の多い桜の名所は苦手だったのですが、
去年と今年は、満開の桜の樹の下に笑顔の人達がたくさんいらっしゃることが、愛おしく、うれしく、ありがたいのです。
今年は満開の桜の樹の下で、喪ったすべてのものに対しても「ありがとう」と言い続けて桜見散歩を続けています。埋まっている「死体」も含めてネ(笑)。


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