ぼちぼちいこか
病気療養中だけどぼちぼち明るくいきたいネ♡

スミマセン!今日はダラダラとぼやきます。(かなり長い……!)

久しぶりに日記を書くのに、
ゴメンナサイ!!今回だけは、長々と「ぼやき」を書かせてくださいマセ。
なんだか、そうでもしないと、気持ちがモヤモヤしているものですから……。
(お忙しい方、人のボヤキに興味のない方は読まないでネ!)


一昨日、マイミクさんの日記でちょっとしたやりとりをしたのですが、その時、相手をついやり込めてしまう形になってしまいました……。
やり込める事自体はまぁ、つい熱くなってしまった私の未熟さもあり、反省しているのですが、その後、私に対する異論は皆さん「つぶやき」で(つまり、スピードと共に無責任にすぐ消えて行くツールの中で、私が気づかないウラ側で)ガンガン言っていることに気がついて、かなりガックリしてしまいました。
そうか……そっちから問題提起はしたもののディベートする気はないってことなのネ……。

私は、意見の違う人と議論することはとてもイイ勉強になると思っています。
(それこそ、ハーバード大のサンデル教授じゃないけれど)
議論をしたところで、どこまで行っても平行線のままかもしれなくても、
語り合うことで(自分とは違う考え方があることを知ることで)自分の中も見えてくるし、社会の中での自分の位置も、今ある社会自体も見えてくると思っているから。
ましてや、自分の考えを相手にわかってもらおうと努力することで、自分の考えがどれだけしっかりしたものなのか否かすら見えてくる。
こうしたことはすべて学びだし、違うことや知らなかったこと、新しい考えに触れる事もワクワクしてくるンです。
……でも、それを望んでいない人の方が多いんですネ。
そうした方々は自分のプライド(?)を守ることが一番大切なのでしょうか……。

事の発端はつい最近あった裁判員制度のことです。
あるマイミクさんがご自分の日記で裁判員が量刑を決めることと死刑制度の是非をワンセットとして語ったことに対して、
裁判員が量刑を決めることに反対している方が、死刑制度の是非論と裁判員が量刑を決めなくてはならない問題とは別々に考えるべきだ、と語ったことに私が異を唱えたことからでした。(その方は死刑制度に対しては賛成論者でした。)

私の考えはこうです。
今までの「法律は専門家にすべて任せておけば良い」という考え方自体がおかしかったのではないか。専門家も一般市民も同じ人間なわけですから、同じ価値観を共有する中で法律は粛々と守られて行くべきものなはず。
法律も犯罪に対する量刑も共に私たちの生活の一部であり、私たちが作って来たものである、という自覚と意識をもつことは、とても大切なことではないのか。
その覚悟において、自分が量刑を判断する立場に立ちうる可能性もふまえた上で死刑制度の存続か否かを語るのは大切なことではないか……と。
だからワンセットにして考えるべきではないか……と。

それほどに自分で引導を渡すことが出来ないようなことなら、専門家と言えども生半可な神経では出来ることではない、ということになりますよね。
それだけ重たい事を自分は専門家じゃないからしたくないけれど、死刑制度は必要で、専門家が引導を渡せばイイ……という考え方は、私にとっては不思議で仕方がないのです。
他人(たとえ専門家であっても同じ人間です)が裁定を下すのなら死刑はOKで、自分が下すとなると罪の意識が重たすぎて出来ないのであれば、
死刑制度はあってはならない量刑だということになり、死刑制度に否と唱えるべきではないか、とさえ思えるのです。
これって、自分さえ良ければよくて、それ以外の面倒なこと(社会)は都合良く他人任せにしているようにさえ感じてしまう……。

自分が今いる世界(社会)で起こっている総てのことには、何らかの責任が私自身にもあると思っています。
ですから、病人で半人前の私ではありますが、自分の意識や考え、行動、発言には責任をもって生きているつもりですし、常にそうありたいと思っています。
(だからと言って、出来ているわけでもないのは残念なところですが…。)
本当に必要だ、と思うのなら、自分自身でも責任をもって出来ることでなくては、おかしいと思う。(何も直接手を下して死刑にしろ、と言っているわけではないし。……でも、死刑って、必ず「誰か」が手を下すことにはなるわけですケド……)
死刑制度の是非論は更にややこしくなってくるので、ここで語るつもりはありませんが、
今法律として存在している事は私たちが必要だと思ってきたから存在するんでしょうから、法改正するまでは、その法の下に生きるしかありません。
それは必然として受け止めるしかないでしょう。
ましてや、心ならずもであったとしても、犯罪を犯して社会のルールを破ってしまったら、その人は犯した犯罪に対して責任をとって償う義務が生じるのは当然のことですから、その時に見合った量刑を受けるしかありません。
その見合った量刑というものを、一般市民の感覚で見直す必要があるのだと思います。

ですから、量刑を素人である一般市民が決める、ということは、私にとっては画期的な事だと思っていました。(量刑の問題提起となるから)

自分が裁定を直接下すことになった時に重い量刑を科すことが「恨まれそうで怖くて出来ない」と思うこともあるでしょう。でも、もしそれ以下の裁定を下すしかないと、判断するのなら、「恨まれそうで怖いから」が理由だとはっきり言って裁定を下したら良いと思うんです。
でも、きっと実際にそう思っても、はっきり口にする人はいないでしょうネ。
それは何故でしょうか?
怖れなどの自己防衛感情が過ぎていて社会的判断ではない、これでは公正な判断とは社会はとってはくれないのでは…とどこかで感じているからではないでしょうか?
私たち一般市民は、量刑の裁定を個人的感情でとらえ過ぎてしまうことが問題だと思うのです。
そこから一歩前に出て社会的な自分と向き合うことが大切なことだと思います。
それは、人任せにしている社会から、自分が関わっている社会へと自分の意識が変わるからです。
今まではそんな裁定を仕事とはいえ、同じ個人的感情も持っているであろう専門家にすべて委ねていたわけです。
専門家は「プロフェッショナル」として個人感情を押さえ込んで客観的になろうとし過ぎ、しかも新しい判断を下した後の責任の重さに耐えかねて判例主義に偏り過ぎたからこそ、時には常識を疑う裁定(一見もっともらしくはあっても)が下されることすらあったのではないでしょうか?
それを、市民意識にもう一度戻す必要があると思うのです。
はじめは、いろいろと問題も起こるでしょうが、始めなくては何も変わらないのではないかしら……?
裁判員制度がそういった意識で始まったのかどうかはわかりませんが、私はこうした必要性で始まったのかと、勝手に思っていました。
「恨まれるのがコワい……」といった個人的感情でではなく(そういった感情が出るのは当然ですが大人としてさらに踏み込まなくては大人の甲斐がないし)、
自分自身の社会的意識の常識をもって自立した意識で量刑の裁定をすることは、自分と社会とのつながりや社会への責任を見直す素晴らしいチャンスになると思うのです。
私たち一人一人が社会を人任せにしない意識をもつ必要性を強く感じます。
それこそ、個人としての意識の自立が必要だと思います。

自分がやりたくないこと(ちょっとした責任が伴ったり、重い気持ちになりそうだったり、文字通りキツいこと)は「その道の専門家がやればイイ」と自分から切り離して他人任せにしておいて、任された人が「それなら‥‥!」と自分の都合の良いようにしはじめて情勢が悪くなったら(解決策はやっぱり人まかせにするくせに)、非難・糾弾に走るのって、無責任で混乱を増やすばかりだし、どーしたいの!って言いたくなりません?
なんだか寂しいし、ものスゴく残念……。

自分が社会の一員である、という意識をもつということは、実はすべてのことと関わって今自分はココに居る、という意識をもつことだと確認する。素晴らしいチャンスだと思うんです。

こうしたことを語り合うことから逃げてしまうのって、自分自身から逃げてしまうことにもなるのでは‥‥と思えて残念でならず、長々とぼやいてしまいました。

最後までお付き合いくださって深く感謝します。

無限なるゆるしと可能性と希望を込めて……………。
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