ぼちぼちいこか
病気療養中だけどぼちぼち明るくいきたいネ♡

そこにある温かで赦してくれる存在_ルオー画『郊外のキリスト』


私が8日に書いたブログを9日に連れが読んで
「ものすごく感動したのはわかるけど、いろいろなことを書こうとし過ぎて、何だかよくわからないものになってるよ」と厳しい指摘がありました。
そして、読み返してみると、確かにご指摘通りでした……。
反省しております。
あまりにいろいろな事を思い、それが起きた順番にも感動し、
更には、ちょっと体調が思わしくなかったのに、早くこの想いを残しておかなくては……と、妙に焦って一気に書いてブログにあげてしまった私の軽薄さ……。
焦ったり力んだりは逆効果だとわかっているはずなのに、
妙に興奮していたせいか、浮わつく自分の勢いに負けて、焦りや力みを制してくれるストッパーに羽が生えて飛んで行ってしまっていたことにすら気づきませんでした……。人間、常に「学び」ですネ。

そこで、今回は、7日に観たルオーの絵の中でも、特に私が気に入った『郊外のキリスト』の絵にしぼって、お話ししようと思います。
この絵は、ちょうど8日にNHK教育テレビの『日曜美術館』の「アートシーン」コーナーでこの展覧会のことが紹介され、一番最初に登場した絵でしたので、今なら伝わりやすいかもしれませんネ。
このサイトに行かれると、この絵を観ることが出来ます。

http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/112/


ルオーはいわゆる「場末」の「郊外」の労働者街である、いわば都市の残りかすや矛盾がすべて流れ込んでいるような環境で育ったそうです。
彼がこの絵を描いた1920年代初頭は、少年時代を過ごしたベルヴィル地区やラ・ヴィレット地区(パリ北東部の郊外)は近代化まっさかり。
「もう夜もだいぶ更けたのか、薄明かりが残る空には皎々と満月が輝き始めた。郊外の裏通りを幼子を連れた母親がまだありつけない食事を乞いながら一軒一軒歩き回っていた」とルオーは述懐しています。
その母親はいつの間にかキリストとなってこの絵が出来たのです。
解説では、キリスト教的には「マルタとマリアの家のキリストの譬え」で、ここでその後、キリストは鍋の横を通って、台所にいるマルタの方にやって来る」という話になる手前の絵ということらしいです。
でも、聖書のお話はどこへやら、私の関心事は別の所へ行っていました。

何故、母親はキリストになったのか……。私はそこに深く心を惹かれました。
さびれてはいるけれど、人の営みがまだ残っている暮れつつある街。
長い煙突に近代化の波を感じさせるのに、ひっそりとあまりに静けさに満ちた風景。これがキリストでなければならなかったものがこの絵にはある、と感じました。
それは「例えようもなく大きく温かく総てを包むように赦してくれる存在」です。
母性はとても温かく包容力があり、赦しに満ちたものだけれど、それは我が子に向けられたものです。この絵の中にある存在はそれをはるかに越えた大きな(宇宙的な)存在に感じたのです。それは、ルオーの風景の中に必ず存在する「何か」でした。
私はそれを、まさしく「キリスト」だと感じましたが、それはクリスチャンでもない私が言うのはおこがましいものかもしれません。
で、それはルオーの絵の中にある「例えようもなく大きくて温かで赦してくれる存在」と呼ぶことにしました。(長過ぎて申し訳ありませんが…)
そして、その存在があるからこそ、この風景が愛おしく、安らぎ、心に何か大きく温かなものを落としてくれるような……そんな感動でいっぱいになるのです。

ルオーの描く(育った)風景に実際に生活していた人々は、宗教的(精神的)にも知性的にも経済的にも、自分の力で自分を良くしていく力を持てない、持たない人々です。その、最も小さき貧しき人々の側にこそ、一番近くにこそ、この世ならぬ温かさと赦しをたたえた存在が「いる」ことを、この絵は絵の波動だけで伝えてくれているように感じます。
どんな存在であっても、何が起こっていようが、大きく温かく「赦してくれる」存在があるからこそ、まだ生きていける……と思うのが「光」の一筋との出会いではないでしょうか?
その一筋の「光」に手を合わせ、私達は大震災直後、一途に「祈り」続けたのではないでしょうか?

今回起きた大震災は、私達の今ある姿を否応なくむき出しにしました。
それは、大災害という、自分たちではどうにも抵抗出来ない大きな力に総てを奪われた時に出る「無力さ」や、道徳的に知っていても恐怖が出てしまえばその通りには出来ない「醜さ」や、何かに依存することで安穏としてきたことが崩壊しかかると責任者を探しては責め続ける「卑怯さ」等です。これらを思い知った私達は、まさしくルオーの描いた「郊外」の人々と全く同じです。
でも、この絵を観たら誰でも気づくのではないでしょうか?
そんな無力で醜く卑怯な私達にこそ、例えようもなく大きく温かく総てを赦してくれる存在が、すぐ側にいてくれることを。
この存在を糧に、責め合うのではない再生の(むしろ新生の)道を見い出していけるはずだと思います。

是非、機会があったら、ルオーの絵を観てください。
震災で変わったからこそ、ルオーに追いつけた感動が、そこにはあります。




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