ぼちぼちいこか
病気療養中だけどぼちぼち明るくいきたいネ♡

「その力になるのが、愛じゃねぇの」





なぜがんばれるのですか。なぜ強くいられるのですか。
問うてみたら、谺は「愛」だと言った。
「いかに一生懸命に生きるか。
 その力になるのが、愛じゃねぇの」
   ___1月28日(金)朝日新聞夕刊『ニッポン 人・脈・記』より




やっと、文章を書ける気力と体力が復活してきました。
数日前の記事ですが、深く感銘し、たくさんの想いを抱えることとなったので、
おつきあいいただけたら、と思います。

この言葉の主、谺(こだま)雄二さんは、
ハンセン病になった人達が「強制隔離は違法だ」と、国を訴えた裁判での
シンボル的存在となられた方です。
一昨年に病気をこじらせて生死の境をさまよい、左腕を切断し、義手をつけ、
全面勝訴から10年を迎える今も「名誉の回復」を求めて頑張っておられます。


この方のことは、おそらく10年以上前にTVのドキュメンタリーで拝見したのが最初だったと思います。
私自身も、その数年前に五里霧中の状況にはまりこんでおり、
いまだ怒りや悲しみや苦しさを向けるべき所も定められないまま、
問題の解決への糸口を探すことをも迫られていた時だったので
谺さんをはじめとして、ハンセン病となったが為だけに不当で心ない差別を受け続けてこられた方々の清々しく明るくさえある姿に、驚き、見入る自分がいました。

恨みがましさが全くといっていいほど感じられず、
包容力と優しさで満ち溢れていたのです。

番組が終わっても、何故この方々はこれほどに「美しい」のだろう……と、
温かな涙が溢れて止まりませんでした。
そっと前を向くように私の姿勢を向き直して下さり、
「大丈夫!!」と勇気をくださったお姿でもありました。
その谺さんの記事に久々に出会ったのです。

記事にはこうあります。
『東京の下町育ち。7歳から隔離され、いまは群馬の施設で暮らす。
 生きている意味をひたすら問い続けてきた。
 「せっかく、ライにかかったんだから、この経験を役立てようと思ってねぇ。
 そこにたどり着くまで、怒り、憎しみ、悲しみ、いろいろあったけど、さ」』

ここに、ドキュメンタリーを観た時に思った問いの答えの糸口を感じました。
谺さんは不条理だと感じたであろう自分の運命から決して逃げず、
すべてを受け止めてこられたのだ……と。
ハンセン病になって、はじめは社会を神様を、病気となった自分自身をも恨み、怒り、嘆き悲しんだことでしょう。
でもその中で、彼が絶望し自ら「ジ・エンド」としなかったのは、
決して自分からは逃げなかった、
心をかきむしりながらも自分と、今と向き合ったからではないのでしょうか。

谺さんとはケタ違いに些少なことではありますが、
実は、私が絶望の中で世の中を恨みがましく見つめてしまっていた冬の時のことです。
事件の事務処理で動き回っている途中で、疲れて鴨川土手でボーっとしていたら、
側を京都のオバちゃんが世間話をしなががら通り過ぎ、
川面では水鳥がのんびりと私の前を泳ぎ過ぎていくのです。
その川面の光がキラキラ眩しくて、周りの音はやさしくて、日差しは温かく……。
フト、「世の中、まんざら捨てたものでもないのカモ……」と思いました。
急に、周りの世界が愛おしく、温かな色付きの世界に変わり、
希望と元気がゆっくりと沸き上がって来るのを感じました。
自分さえその気になれば「愛(その時は希望だったように思う)」はどこにでもあって、きっと大丈夫になれるンだ!と、根拠もなく思ったのが、今でも昨日のことのように思い出されます。

この話からココに飛ぶのは唐突ですが、
きっと谺さんも、何か「出会い」があったのだ!と思ったのです。
谺さんの場合は、さらに壮絶で劇的な状況ですが、
彼はきっとその「出会い」の中で、人の尊厳や美しさに気づかれたのではないでしょうか?
病気による「見かけ」の変貌で、忌み嫌われ、隔離され続けている中で、
「見かけ」にではなく、人には尊厳と美しさがある、と気づいた時、
自分は本来「美しい」ものを持っていたのだ、自分は幸せになっていいのだと確信なさったのではないでしょうか?
だから、あれほどに明るく清々しいのではないのでしょうか?
だからこそ、「名誉の回復」なのではないでしょうか?
国の社会の不当さへの怒りという、薄っぺらなものではなく、
人の尊厳や(真の)美しさを冒涜することがどんなに悲しく寂しいことであるのか、
それを訴えたいのではないでしょうか?
だからこそ、こんなに美しく感じるのでしょう。

記事はさらに続きます。
『国が控訴をあきらめた2001年の5月23日。
 彼は東京・永田町から、その場にはいない男に向かって叫んだ。
 「時ちゃん、やったぞ。国は断念したぞ。
  長生きして、いい絵をたくさん描いてくれ」』

待ち望んでいたものを獲得した瞬間に、まず自分のことより友のことを思いやる姿に、
谺さんの「愛」の深さをしみじみと感じます。
この、「時ちゃん」こと鈴木時治さんのお話も素晴らしいのですが、
長くなるので今回は控えますが、機会があれば是非新聞記事を読んでくださいネ。

谺さんや鈴木時治さんは、壮絶で劇的な人生を送られていますが、
誰の人生でも、意に添わず「何故こんな目に……」としか思えないようなことを突きつけられることはままあることです。
それを、逃げることなく、向き合い、受け止めて、
「せっかくこんな目にあったのだから……」と、捉え直して生きる、
ということの大切さを教えていただけた記事でした。

そして、その原動力は「愛」なのダ!!




♡追記♡

友人から、ちょっとした誤解のある意見をもらったので、
蛇足になるかもしれませんが、追記させていただきたく思います。
(私の力不足です。スミマセン……。)

谺さんのことを取り上げたのは、
劇的で特殊な例ですが、それだけにわかりやすいから、
ついつい取り上げているだけで、
特殊なレベルのことを言いたいワケではないのです。

それぞれの人生には誰でもそれぞれに、
人に言えないことや言ってもどうしようもない(と思える)ことがあるものですよネ。
そんなことを公の基準にさらしても判定がつくものではないでしょうから。
で、そういったことが自分に降り掛かって来た時には
誰かに代わってもらうものでもないので、
自分の人生として受け止めていくしかないのであって、
別に劇的で特殊な人だけが特別なわけじゃない……と言いたいのです。
皆、誰もがそれぞれに特殊な事情を抱えて生きている。
それと如何に向き合い、受け止めるか……そこに出会いがあるのだと思うンです。

その出会いや気づきを素直に受け止めて「愛」の原動力で何にも捕われる事なくそのままに生きる姿は、誰もが美しいはずです。

要は、皆で美しく生きたいねぇーってコト。

私の「出会い」なんゾは、私がそう思っただけで、
思い込み、あるいは妄想かもしれないんだよネ(笑)。
でも、それで良くなったのだから、それで十分なワケです。

谺さんの出会いがどういうものだったかは、個人的なものでしょうが、
その出会いを通して、谺さんが今どう生きていらっしゃるのか。
私達は同じ時の中で、それを見せていただけることで、
大きなギフトをいただいているンだと思う。
そして、私自身も、自分の気づかない所で、
誰かにギフトを贈ることが出来ていたらイイな~~と思うワケです。

☆ちなみに、コメント欄に取り上げた新聞記事を載せておきました。
よろしければ、ご参考になさってください。
(鈴木時治さんの記事もすごいので。)
表示されていない場合は、下↓の「 CM 」と書かれている所をクリックしてネ。

関連記事

Comment

No title
以下が取り上げた新聞記事です。ご参考になさってください。

_____________________

隔離の記憶(2)その力は愛じゃねぇの/ニッポン人脈記

そのべらんめえ調が、いかにも江戸っ子らしい。
「黙って、このまま死んでいくわけにはいかないんでねえ」
ハンセン病になった人たちが、「強制隔離は違法だ」と国を訴えた裁判。
そのシンボル的な存在だった谺雄二(78)は、全面勝訴から10年を迎える今なお、「名誉の回復」を求めて
国と闘っている。
仲間が一人倒れ、また一人倒れてゆく。
谺も一昨年、病気をこじらせて生死の境をさまよった。
死の淵から目覚めた谺は左腕を切断し、義手をつけた。
なぜがんばれるのですか。
なぜ強くいられるのですか。
問うてみたら、谺は「愛」だと言った。
「いかに一生懸命に生きるか。その力になるのが、愛じやねえの」
東京の下町育ち。
7歳から隔離され、いまは群馬の施設で暮らす。
生きている意味をひたすら問い続けてきた。
「せっかく、ライにかかったんだから、この経験を役立てようと思ってねえ。そこにたどり着くまで、
怒り、憎しみ、悲しみ、いろいろあったけど、さ」。
らい、はハンセン病の古い呼び方だ。
国が控訴をあきらめた2001年の5月23日。
谺は東京・永田町から、その場にはいない男に向かって叫んだ。
「時ちゃん、やったぞ。国は断念したぞ。長生きして、これから一生懸命に生きて、いい絵をたくさん描いてくれ」
谺の愛が届いたのだろうか。
「時ちゃん」こと鈴木時治は、谺と同じ施設で、03年に77歳で命がつきるまで、油絵を描き続けた。
感覚がまひした手に、やけどや凍傷が生じて、指をすべて失った。
それでも、手のひらに絵筆を縛りつけ、失明寸前の目をキャンバスに近づけ、描いた。
なぜ、そこまでがんばれたのか。
強くなれたのか。
15歳で隔離されたとき、鈴木にとって、施設は、死ぬのを待つ強制収容所でしかなかった。
特効薬はまだなかったので、目や口、足、手の神経がまひして変形してゆく。
焼酎に薬を混ぜたり崖から飛び降りたり。
だが、どうしても死ねない。
鈴木はもがいた。
おれは生きるしかないのか。
生きる希望があるのではなく、死ねないから生きるしかないのか。
苦しみ抜いて手にした本に、ユダヤ人の画家が紹介されていた。
フリードル・ディッカーだ。
ナチスの強制収容所に入ったディッカーは、いずれガス室に送られる子どもたちに、明日を生きる希望と
喜びを与えるため絵を教えた。
ディッカーはアウシュビッツで死ぬが、生き延びた子どもたちもいた。
鈴木の心はふるえたようだ。
「絵を描くことで、おれもなにかを見いだせるかもしれん。ぶったまげた」と後に語っている。
鈴木の画集「生きるあかし」が残っている。
絵は晩年、どんどん明るくなってゆく。
鈴木は妹を思い、少女を描いた。
病気になった自分のせいで、苦労を重ねた末に死を選んだ妹を。

国に裁判で勝った日、谺はニュース番組に出演した。
テレビを見ていた宮坂道夫(45)は、懸命に訴える谺に共感した。
現在は、新潟大医学部の准教授として、医療の現場に立つ学生に生命倫理を教えている。
宮坂は、谺を招き、授業で話をしてもらった。
「重監房」と呼ばれる懲罰の部屋が、谺の住む施設にあった。
そこでは、飢えや寒さなどで22人が命を落とした、と聞かされる。
治療の場であるはずなのに、なぜ懲罰の部屋があるんだ。
宮坂には疑問だった。
負の遺産として語り継がれているアウシュビッツなど、ユダヤ人虐殺の場を訪れる。
現場を残さなければ。
伝えきれない生々しさを感じた。
帰国後、谺とともに重監房の復元運動を始め、10万人の署名を集める。
復元計画が動き出した。
宮坂は言う。
「負の歴史を教え、伝えなければ、恥であり続けると思うんです」
ハンセン病を知る人間は、老い、衰えている。
それでも谺は仲間たちに呼びかける。
「まだ死んでくれるなよ。こっちも命はそう長くないからさ、もう少し一緒に頑張ろうぜ」
(高木智子)
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2011.02.02 00:44 | URL | mina5east #79D/WHSg [edit]

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