ぼちぼちいこか
病気療養中だけどぼちぼち明るくいきたいネ♡

手前味噌ですが……♡



大変お久し振りです。

3月11日午後2時46分を境に、私達は大きな悲しみと試練の中にあり、
まさしく世界がひっくりかえる思いの中で生きることとなりました。

私は大震災前から体調を崩していましたが、
震災は何とか無事でいられました。
でも、その後再び寝込んでしまう中、ネットとテレビの情報に釘付けとなり、
ただひたすら、布団の中から祈り続けるしかありませんでした。

そんな中、連れ合い(浄土真宗大谷派の僧侶です)が、SNSのひとつmixiで、
被災していない友人達に向けてメッセージを送っていました。

手前味噌で申し訳ありませんが、
連れ合いとは云え、なかなかグッとくるものがあり(ノロケ……?まさか!?)
こちらで3話ほど紹介させていただきたく思います。

* * * * * * *


☆現場にいる人達 (2011年03月15日22:45)

しかし、自衛隊員、警官、公務員、公共交通の職員等は今大変だろうな。

ところで、被災地の現場に行くのはもちろん私らより若いのに決まってるけど、
明治時代の警官の話しでこんなのがある。

明治28年に佐賀県唐津市の高串というところでコレラが蔓延した時、
衛生学の知識があったので25歳の増田敬太郎という巡査が配属された。
当時の唐津では、火葬の習慣がなく、
いちいち遺体を消毒してから土葬するという作業を彼が1人で続けていた。
で何日めかに疲労困憊していた彼もコレラに感染してしまい、
病床についた後亡くなったそうだ。
それで、亡くなるちよっと前に
「高串のコレラは私が全部背負っていきますから安心してください。」
といって亡くなったそうで、
どういう偶然かちょうど彼が亡くなった位からコレラが引き始め、
その後、衛生意識が高まったのか
この地域は伝染病の発生がほとんどない地域になったそうで、
彼が火葬された場所(彼は火葬された)の上に祠が立って、
後に神社が建立されたそうだ。
で、地元の子供たちは今でもこの神社を「増田さま」と呼んでいるそうである。

まあ、こんなに劇的でなくても
きっと小型のこういう人たちが今働いているんだろうな、と思うので
直接被災地に関係ないところにいるわれわれは日常生活をきちんと続けて、
買い占めをしたり、つまらぬ風評をまきちらさず、
少し余裕があれば寄付金等をとっておくなどして
冷静にすごしていればいいのだと思う。

あと、人間は祈る動物だと思うので、
人間以上の存在に無事を祈ったり、
こんなことが起こるのは我々の何がまちがっていたのでしょう?
と問いかけるのは普通だと思うので、やればいいと思う。

戦後の教育を受けた我々は、祈る人は特殊な人と思っているが、
こうした状況になってみると、祈らない人の方が不自然な感じすらするのだが、
どうだろう?



☆被災地への祈り (2011年03月17日11:27)

ここのところ、珍しく日記を続けて書いてます。
今週の仕事以外のイベントがことごとく無くなって
時間があるというのもありますが……。

一昨日、祈りのことについて書いたので補足を少し。

祈りは「人間にとって本能のようなもの」と書きましたが
本能のままに祈れる、という人も少ないだろうから実例を挙げます。

日本人の潜在意識には「南無○○仏(あるいは如来・菩薩)」「南無○○経」という形式が染み付いているだろうから、
「○○」の部分に自分にしっくりくる阿弥陀とか観音とか法華とか観音経だとかを入れて、
その「南無」しているものの「光が被災地に届きますように。被災地の人々の生活に平安がありますように。」と祈る。
例えば「南無阿弥陀仏の光が被災地に届きますように。被災地の人々の生活に平     安がありますように」といったかんじです。

もしくは、ほとんど本能的に「神様お願いです。」といったような叫びに続けて「被災地に光が届きますように。被災地の人々に平安がありますように。」と祈るのがよいかと思います。

もしくは、街角でよく目にする「世界人類が平和でありますように。」
これは私が日頃敬愛している故・五井昌久氏が「祈りによる平和運動」のための祈りとされてたもので非常に簡便なみんな知っている言葉なのでこれに続いて「被災地に光が届きますように。被災地の人々に平安がありますように。」と祈るのがいいかと思います。

実例として参考にしてください。

直接何も出来ないところにいて、漠然とした不安や憶測に心のエネルギーを費やしているのは「心の無駄遣い」に思えるので
他者のために祈ってみてはいかがでしょう?
試してみていただけるとありがたいです。

今日は機動隊(自衛隊だったかな?)による原子炉周辺に対しての接近しての放水ということも行われる様なので、「機動隊(自衛隊)の皆さまの天命がまっとうされますように。」と祈るのもよいかも知れません。

キリスト教の「主の祈り」というのもいい祈りです。
ちょっと長いかな?(笑)
このことに関するコメントは、はやとーさんに任せます(笑)。

皆様あれこれ結論から始める前に一度、やってみてください。
お願いします。


注)以下は、上記をお読みくださった「はやとー」氏が、
  「主の祈り」をご紹介くださったものです。


☆はやとー(2011年03月17日 18:19)
UNCHANさん有難うございます。 
リクエスト(笑)にお答えして、「主の祈り」 

天にまします我らの父よ 
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ 
御国(みくに)を来たらせたまえ 
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ 
我らの日用の糧(かて)を今日も与えたまえ 
我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく 
我らの罪をもゆるしたまえ 
我らをこころみに会わせず悪より救い出したまえ 
国と、力と、栄とは限りなく汝のものなればなり 
アーメン 





☆気持ちを転換する言葉 (2011年03月18日12:28)

放っておくと、ネガティヴな考えや言葉というものは心の底にたまっていき 
危険なものです。 
これは「祈り」ということではありませんが、 
「今日1日、こんな否定的なこと考えてもーたなー。」と思った時は 
それと反対の肯定的言葉を 
心の中でか、または口に出して呟いて(…別に叫んでもよい)おく事は大切だと考えます。 

例えば、「あのくそボケやろう。」とさんざん言った(思った)日は 
「赦し。」とか「○○さんへの赦し」と一言つぶやいてみて下さい。 
そして自分の気分を観察してみる。 
1日「もうダメダー」という言葉を心の中で連発してしまった日は、 
「希望」とか「希望はある」と一言呟いてから寝る。 
……等をしてみると何らかの気分の変化があるはずです。 
気分というのはやっかいなもので、 
いつの間にか本人にもコントロール不可能になって 
行動を規定してしまったりするものです。 
ちょっとしたメンテナンスをするのと、しないのでは大違いになるので、 
これもあまり頭で考えず、1度試しにやってみて下さい。 
お願いいたします。

* * * * * * *

以上です。

いま、生きていることに、希望が託されているように感じています。
祈りの中で、自分らしさを忘れず、
被災された方々と共に、
痛みと悲しみを分かち合い、愛と希望を育み合っていきましょう。

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