ぼちぼちいこか
病気療養中だけどぼちぼち明るくいきたいネ♡

右手のすることを左手に知らすなかれ

今日というか正確には昨日、上石神井にある上智大学神学部構内にあるロヨラハウスに行って、父路門(フロモン)先生にお会いしてきました。

ロヨラハウスはイエズス会の神父様方の終の住処といえる施設です。
フロモン先生は3年前に入所され、
私はロヨラハウスに伺うのは初めてでした。

神父様達の……とはいえ、「終の住処」というイメージがあるので、
ちょっと心してお訪ねしたのですが、
ドアを開けて入った途端、
フワァ〜〜ッとした静かで温かくしかも明るい心地よい空気に逆にビックリしました。
「お祈り」に満ち溢れた場だからなのでしょうか、
素晴らしく呼吸しやすくて気持ちが良いのです。

応接室に通される途中にも、廊下の両脇の部屋から
介護をうけていらっしゃる神父様や、治療中の神父様、車椅子の神父様が伺えますが、
まさしく「神の御心」にお任せしていらっしゃるからなのでしょうか、
全く暗さを感じないのです。

応接室でフロモン先生をお待ちしている間も、
音楽ひとつ流れていない静かさなのですが、何かが満ち足りている空気の中で、
音楽がなくて静けさだけでも寂しくない空間……というものに、
逆に懐かしささえ感じました。

そしていよいよフロモン先生のご登場!
車椅子生活だと伺っていたのですが、
なんと、両方の手に杖をもって、杖をつきながらご自分の足でしっかり歩いてのご登場でした!
「やぁ、お待たせしてしまいました」と聞き慣れた外国人イントネーションのお声。
歩いてご登場だけでもうれしかったけれど、お顔を見ただけで妙にほ〜〜っとする私。

相変わらず自分で出来ることは自分でやろうとなさるお姿や、
物事をはっきり(ある意味素晴らしく辛辣に)おっしゃるし、
話題は介護や尊厳死のことにまで及びました。
連れ合いにも、仏教のことをお尋ねになるのですが、
彼と話をしていても、全くぶつかることがなく、
興味深く熱心に耳を傾かれていました。
本当に気持ちのいい時間を過ごさせていただきました。
まさしく昨日の青空のように爽やかで清々しく豊かな時間でした。

おいとまをして、ロヨラハウスを後にした帰り道、
ふと、思い出したのが、
昔、友人がフロモン先生のことを
「 "右手のすることを左手に知らすなかれ" (マタイ伝6章)というけれど、
フロモン先生くらいそれを体現なさっている方はいない」
と言っていたことです。

この言葉は、誰かのために何かをするとき、右手ですることを左手にはわからないようにするように、なるべく人に知られないように、相手にも気づかれないようにやることこそが愛である……といったような意味であると私は解釈しています。
今日お会いして、まさしくその通りだ、と深く感じ入りました。
この気持ちの良さや豊かな気持ちは、
まさしくフロモン先生の、この言葉通りのご姿勢があってのことだと感じました。
無私の心……とでも言ったらいいのでしょうか。

まさしく青空のような方。

フロモン先生には到底及びませんし、なるつもりはありませんが、
「右手のすることを左手に知らすなかれ」を心に刻み、
私なりの青空の人をめざそう、と思います。

果たして、どうなることやら……。




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フロモン先生









3日前、山猫の招待状(宮沢賢治『どんぐりと山猫』)のようなハガキが届きました。
よく見ると、それはフロモン先生からのハガキでした。

フロモン先生は30年前からのお付き合いの、
大切で尊敬する元フランス人のイエズス会の司祭です。
「父路門フランソワ」という名で日本に帰化された日本人です。
高校からの親友(バリバリのクリスチャンで今シスターになっています)
の先生だったのが父路門神父様です。

幼少の頃から片足がご不自由なのですが、杖をついて歩く事の速い事……。
イエズス会イチの健脚と陰で言われるほどでした。
物は最低限のものしか持たず、
部屋(当時は大学の寮長(?)だったはず)の鍵をしないので有名でした。
いつでも誰でも訪れてもいいように……というのが先生のお心でしたが、
心ない人に何度も泥棒に入られて、皆が鍵をかけるように言っても、
「必要な人のところに(盗まれた物が)行ったのだから、それでいい」
とおっしゃって取り合わない方でした。
見かねて物を差し上げると、
「これは○○さんが好きそうな物なので、
彼が欲しがったら、差し上げてもかまいませんか?」
とおっしゃるほど、人のことしかお考えにならない方なのです。
「謙虚」という言葉が実在する姿として感じたのも、先生がはじめてでした。
ここまで真面目で真摯な上に
ちょっとたどたどしくもどかしそうに日本語をお話になる(日本が長くて、帰化までしているのに)方なので、
側に居るときは「あ〜早く帰りたい……」などと、不謹慎な気持ちを半分抱きながら、
先生のお話をうかがうのですが、
離れていると、
心がフと弱くなったり、寂しくなったりした時に、
先生の笑顔や言葉を思い出して、会いたくなってしまう……という、
なんとも複雑な対応をしてしまう、心貧しき私。

今は引退され、引退された神父様達の終の住処であるロヨラハウスで、
パーキンソン病ながら、80歳を越えても今なお明るく元気(?)でいらっしゃるのです。
会いに伺いたいと言いながら、私も体調にムラがあるので、
先延ばしにしていたら、
こんな私に届いたのがこのハガキでした。

「おはがきどうもありがとうござました。おひまのときどぞいらっしゃい。(おひまのときいつですか……)もう今日で12月、日がみじかい、くリスマスのときごろからまた日がすこしづつ長くなります。イエス・キリストが心のひかりです。神様が心にも体にも多くの恵みを注いで下さいますように祈ります。では、また会いましよう。」
と、ハガキには書かれてありました。

その字がスゴい!!
ご病気で手がうまく動きづらくなっているのが良くわかるのに、
なんて優しく温かく、心がこもっている字なんでしょう!!

この素敵なハガキをみていただきたくて、今これを書いているわけです。

連れ合いは浄土真宗の僧侶なのですが、
連れ合いも「あの方はきっと本当のクリスチャンだね。僕も尊敬できるよ」と言って
彼共々お付き合いは続いています。

そして、
明日ロヨラハウスに伺う事になりました!

もう、お会い出来る……と思っただけで温かな気持ちになります。
フロモン先生のようになる気はありません(到底ムリ〜〜!)
でも、あのすがすがしく優しく温かなものを、
私なりに、コミュニケーションの中で相手の方にお渡し出来るようになりたいものです。

お会いしたご報告はまた後日に。

♪   ♪   ♪   ♪   ♪   ♪   ♪

写真集 " Skyscapes " と I Z の " Somewhere over the rainbow " と

荒木経惟さんの " Skyscapes " の話ばかりで申し訳ありません。
うれしくて、ヒマが出来ると開いては、深くため息をつきながら見てしまうもので……。

この写真集のことは、
実物を見ていただくしか、お解りいただけないだろうとは解っているのですが……。

あるインディアンの部族では、
空は父なる存在であり、空からすべての幸福が降り注がれて来る……と考えられているそうです。晴れていようが、曇りの日であろうが、雨の日であろうが……。
この話を聞いてから、私は空を見上げることが多くなりました。
見えないけれど、何かが降ってきているような……。
何だかひとりじゃない気がして、ぼんやりとした暖かみすら感じるンです。

それは、この写真集の空にも気配があって、
耳の奥がキーンとなりそうなくらいの深いせつなさがあるというのに、
不思議な暖かみがあって、ふわっとやさしいベールに覆われているのです。

ページの最後に辿り着き、本を閉じた時、
フと、I Z の " Somewhere over the rainbow " を思い出しました。

I Z とは、
イズラエル・カマカヴィヴォオレ(通称IZ)というハワイのミュージシャンです。
(Israel Kaʻanoʻi Kamakawiwoʻole、1959年5月20日 - 1997年6月26日)
340kgを超える巨体から美しい歌声で魅了する、
ハワイを中心に、死後10年以上たった今でも伝説的な人気がある歌手です。
私はこの人とこの曲を、アメリカNBCのテレビドラマ「ER緊急救命室」の中で、
脳腫瘍に冒されたマーク・グリーン医師が、生まれ育ったハワイで命を引き取る際のBGMに使われた時に、はじめて知りました。
(曲自体はご存知の通り、邦題を『虹の彼方に』といい、1939年のミュージカル映画『オズの魔法使い』でジュディ・ガーランドが歌った劇中歌です。作詞作曲は、アメリカ人作曲家ハロルド・アーレンと作詞家E.Y.ハーバーグのコンビ。ジャズでもスタンダードナンバーとなっています。)
その後、ショーン・コネリー主演/製作の
映画「小説家を見つけたら Finding Forrester(2000年)」のエンディングテーマや、
映画「ジョー・ブラックをよろしくmeet the joe black (1998年)」のエンディングでも使われていることも知りました。
私にとっては、 " Somewhere over the rainbow " の数ある演奏の中で、この I Z のアレンジと楽曲がベスト1です。

その歌声はこちらで聴いてみてください。
(これには、 " What a wonderful world " が間に挿入されています)

で、この曲をかけながら、写真集を開いてみると……
全然しっくりこないんです、これがまた(笑)
やっぱり、ハワイの目が覚めるような眩し過ぎる青空とは違う世界があるのかなぁ…と
写真集を閉じて眼を閉じて I Z のCDに耳を傾けながら、
瞼の奥に落とし込まれた、さっきまで見ていた写真集のことを思いました。
すると、これが不思議とファ〜っとひとつになって、
心の底から感動がこみ上げてきたんで、ビックリ。
なんだろう、
 I Z の唄声と歌詞の波動と、私の眼の奥にある写真集の波動がピッタリ合って、
何倍にも膨れ上がってくるような……うまく言えませんが、そんな感動が。

こんなこともあるんですネ。



アートは作家ひとりにしては成らず。














映画『ハーブ&ドロシー』を観てから、
私の中で昔よく思っていた「想い」が甦ってきていたのですが、
昨日SO BOOKSさんでゲットした荒木経惟さんの空の写真集 " Skyscapes " を観ていて
その「想い」が確信に変わりました。

どんなに才能のあるアーティストでも、
その人ひとりだけでは成熟し得ないのがアート(芸術)なんだな……と。

『ハーブ&ドロシー』に登場するアーティストは、
ミニマルアートやコンセプチュアルアートのNY現代美術界の大御所ばかりなのですが、
ヴォーゲル夫妻が買い求め始めた頃は無名だった人がほとんどです。

どんなに自分を信じていても、誰も見向きもしなければ、
心が折れそうになったことは一度や二度ではないでしょう。
そんな時に小額なものでも買ってくれる”誰か”がいたら、
自分の成長を一緒に楽しみ、「イイね」と言ってくれる”誰か”がいたら、
それは自分の為だけのアートではなく、”誰か”の為のアートともなり、
社会性を帯びたものになっていくでしょう。
社会性を帯びるということは、意識が変わることも意味します。
世界の中の自分がアートを創造していく、ということが、
同じ一本の線をひいても、以前とは違う線になっていることでしょう。
この意識の積み重ねが成熟した豊かさや広がりを加えるに違いない!
と思ったのです。

これは、『ハーブ&ドロシー』を観れば、
ヴォーゲル夫妻が楽しむ時アーティスト達もうれしそうに楽しんでいるのでよくわかります。
まるで、プラスのエネルギー同士がぶつかり合って、さらに2倍にも3倍にもエネルギーがはじけながら増殖していくようで、観ているだけでウキウキしてきます。
それは、寄り添い、共有し、お互いに楽しむことで可能になっていくもののようです。
(批評家や評論家とだって、同じように共有し楽しむことができれば、
きっとお互いに高め合う理想的関係が築けるでしょうに……。)

そこに、荒木経惟さんの " Skyscapes " の登場です。
荒木さんは愛する奥様を亡くされた後しばらくは
空しか撮ることが出来なかったそうです。
そこには、深い喪失感と深い深い愛と、深い祈りだけが純粋にあったでしょう。
絶望感と無力感で手を持ち上げる気力すらなくした時、
両手を合わせることだけは出来て、そこではじめて「祈り」と出会うように、
荒木さんは空を撮ることと出会ったのだな……と、
写真集を見ていてしみじみ感じました。
それはヴォーゲル夫妻がもたらす作用とは逆に、
寄り添い共有し、共に楽しむ存在の喪失から生み出されたものですが、
これもやはり、それだけの大切な存在があってこそ生み出されるものでしょう。
ただ空だけを撮っているのにただの空ではないのは、
荒木さんが才能をひとりで磨いてきたからではなかったからでしょう。

これって、私たちのささやかな生活にだって、言えることですよね。
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