ぼちぼちいこか
病気療養中だけどぼちぼち明るくいきたいネ♡

映画『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』



ハーブ&ドロシー [DVD]


渋谷のシアター・イメージフォーラムでやっている映画
『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』
を観て来ました。
どんな映画かは、以下の動画を観てネ♡♡



とっても素敵でキュートなご夫婦のドキュメンタリーです。

何がスゴいって、
アートを、理屈や銭勘定やステイタスではとらえる事のない姿勢です。
とにかく楽しむのです。
アーティストとの交流も楽しむ。
理屈や意味が解らないくらい何のその、
「美しい」「何だか素敵」「気に入った」のなら、それでイイ。
離散させず、コレクションとしてまとめておくのが大切なこと。
どんなに自分たちの所有するコレクションに価値が高くつこうと、
一点も売却することはせず、今でも1LDKのアパートで質素に暮らしているのです。
(ですから、自分たちが死んだ後のことも考えて、
他所へ売却しないという理由で、ナショナル・ギャラリーに
4000点余りのアート作品を寄贈しています。)

今のアート・シーンについて考えさせられることも提示しているけれど、
それを考えなくても、十分素晴らしく魅力的なアプローチに満ちあふれています。

ここまで、ヴォーゲル夫妻のようにする必要はないけれど、
アート(芸術)というものと、どういうふうに向き合ったらイイのか、を
このハーバート(ハーブ)&ドロシー・ヴォーゲル夫妻は
提言してくれているように感じます。

ひとりひとりが、自分の感性に素直になって、自分を信じてアートに向き合い、
ただひたすら楽しむことができたら、
それこそ、アート(芸術)は、もっと豊かで活力溢れる世界となるような気がします。
小難しい理屈や評論をしたい人は自由にすればイイ——それが楽しいのならネ。
理屈や評論は苦手でも、アートを楽しむ姿勢こそが素敵な人生を創ることを、
このご夫婦は示してくれています。

私はこれを「感性の自立」と感じました。
自分の感性に素直になり、それを信じ、楽しむことを。

映画を観終わって、何とも楽しく、豊かな気持ちにさせてくれる映画です。
アートに関心のある人もない人も、是非観てもらいたい映画です。
人生の楽しみ方の大きなヒントがたくさん詰まっているから。
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宇宙に私のかわりは何処にもいない。

一昨日はとてもイイ事が重なった日でした。

<その1>
朝からまぁまぁの体調だったこと。

<その2>
以前にご紹介したKhanam(カナム)でクリスマスケーキを作ることを知り、
クリスマスケーキの予約が出来たこと。
小さい子供の頃からクリスマスはケーキがつきものとして育った私にとって、
ケーキのないクリスマスほど寂しいものはありませんでした。
(真面目なクリスチャンの皆様には申し訳ありませんが……。)
それが、今年は食べられるかと思うと……♡!!

<その3>
写真家の下平竜矢さんの作品展示を観に行って、下平さんともたくさんお話できた事。

<その4>
下平さんの作品展示をしているSO BOOKSという本屋さん(アート・写真集専門)で、
長年探していた、荒木経惟さんの”Skyscapes"がみつかり、取り置きしていただいたこと。
これは、荒木さんの空を撮ったものだけを集めた珍しい写真集。
なんでもないはずの空なのに、荒木さんが撮って切り抜かれた空の素敵なこと!
奥様を亡くされてすぐから撮っていた空、空、空……。
空を撮らずにいられなかった深い悲しみと深い愛、
それを越えて、空の下で生活する息づかいまでも深い眼差しと慈愛で包んでいるような…
そんな写真が見開きいっぱいにモノクロ写真で広がっているんです。
下平さんと一緒にページをめくりながら、「スゴいねぇ……!!」とため息ばかり。
イイ写真って、分厚い本を一冊読んだ後のような深く豊かなものが流れ込んできます。
それが本になっているんですから……!!
もうすぐ、私の下へ来るかと思うと、今でもうれしくなってきます。

<その5>
三田に住む実家の両親が電話で、懐かしい友人と会い、とても楽しかった!と
電話口で声を弾ませていたこと。

<その6>
SO BOOKSの帰り、お店の方に教えていただいて、
久しぶりに代々木公園に出て、ゆっくりと一人で散歩を楽しむことができたこと。
原宿駅まで歩きました!
なにせ、アラーキーの写真集ゲットで興奮していた私にとって、
代々木公園を歩きながら触れる冷たい大気は、
興奮している私をゆっくりと落ち着かせてくれ、心地良ささえ感じます。
景色はすっかり晩秋です。
銀杏は黄色く燃えるように空へと沸き立ち、
落葉が足下でガサガサとまとわりつき、
すれ違う人たちは土曜日でもあるせいか、皆なごやかで楽しそう。
夕暮れ迫る空と晩秋の景色と人と私とを
冷たい風がフワっと包み込んで、
まるでハーモニーのように私と周りのすべてが調和していくような……。
静かで気持ちのいいひとときでした。

歩いていてフと思い出した言葉がありました。
漫画の『セクシーボイス アンド ロボ』で、ニコがつぶやくのです。

「……私もわかった。宇宙に私のかわりは何処にもいない。」

あぁ、今ココにある心地良さには、
今あるどれもが少しでも欠けてはダメなんだなァ……。
私がココに居ることも大切なんだ。
ありがたいなぁ……。

そんなことをぼんやりと思いながら、
代々木公園の中でひとり、ゆっくり歩きました。
久々の至福のひとときでした。

でも、冷たい風に吹かれ過ぎたのか、
夜中からまた発熱していまいましたが……。
(もしかして、知恵熱……?! )

「ぼちぼちいこか」について

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ぼちぼちいこか

友人が私のブログのタイトルを見て、
「ぼちぼちいこかっちゅうのは
キー坊&有山はんでんがな!」と言ってきたので、
(上田正樹&有山淳司のアルバムタイトル……古っ!)
それもあったな〜……これはいけない!と思い、
私なりの思いと元本があるので、
今回は遅ればせながら、書かせていただきます。

いや〜、自分にとってはあまりに当然のことだったので、皆さんおわかりだとばかり思っていたのは
ひとりよがりと言うものでした。
自分だけが当たり前と思うのって確かにマズいよね。
友人にも感謝ですナ!

私は学生の頃にこの『ぼちぼちいこか』という絵本に出会い、折に触れて励ましてもらって来たのです。

『ぼちぼちいこか』はマイク・セイラー/作、ロバート・グロスマン/絵、今江祥智/訳の、
偕成社から1980年に出ていまだにロングセラーを続けている絵本です。
かばクンがやる気を出して、様々な事にチャレンジしてみるものの、
大き過ぎる体や重過ぎる体重や有り過ぎる力でどうもうまくいかず、
「どないしたらええのんやろ。」と途方に暮れますが、
「そや、ええこと おもいつくまで——ここらで ちょっと ひとやすみ。」
と、ハンモックにのって「ま、ぼちぼちいこか——ということや」
で終わるおとぼけ絵本です。
絵もユーモラスで暖かく、
その上に、翻訳を今江さんがわざわざ関西弁にしているので、更に世界が広がっています。

頭の中がグシャグシャで自分ではどうしようもなく、なのに気だけはアセる……
…そんな時にこの絵本は
「ま、もちょっとじっくりと自分をみつめ、ぼちぼちいけばエエんやで……」
と、やさしく落ちつかせてくれる絵本でした。(今でも大好き!)

今の私は病気療養中なのもあって、
この言葉は必需品です。

ま、そういうことですので、
これからもぼちぼちお付き合いくださいネ。

私を救えるのは宇宙で私だけ!






「ロボの言う通り、
 私はずっと自分の味方でいようと思う。
 なぜなら、私を救えるのは、宇宙で私だけだから。」

これは、私の大好きな黒田硫黄さんの漫画『セクシーボイス アンド ロボ』の
主人公のスパイ志望の中学生・二湖(ニコ)が、ドラマの最終回の最後につぶやく言葉です。
人の声まねと聴覚に人並み外れた能力を持つ主人公(スパイになりたがっている)の中学生・二湖(コードネームをセクシーボイスと名乗っている)と
ひょんな事から知り合って二湖に利用されつつも、その単純でヘタレだが感動的な純真さで彼女を癒していくロボットおたくの「ロボ」とが、
出会う事件を解決(?)していく話です。

私は原作もドラマ(私の大好きな木皿泉さんの脚本で、うまく原作の雰囲気とテーマが出せていたと思う)も大好きでした。(原作もドラマのDVDも持ってるゼ!)
でも、原作は2冊出た後はストップしたままだし、ドラマなぞは、視聴率がかなり低かったらしく(私の中では傑作と呼びたい位なのに…!)多くの世間様の知る所とはなり得ませんでした……残念!!
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最近、この言葉がよく私の頭の中で駆け巡ります。
「どうしてだろう……。」とぶつぶつと言っていたら、
連れ合いが
「あれは反語的意味があると、僕は思う。」と、一言。
途端にファ〜〜〜っと視界が開ける思いがしました(さすが、お坊さまァ…!)。
そうかー、宇宙も自然も周りのものすべては私を救おうとしてくれているのに、
それに気づかず、自分を救おうとしていないのは、確かに自分自身かも………。

二湖は漫画の原作でも、出会った事件に対して、
今、この事(事件の解決の鍵)に気づいているのが私だけなら、
今、救えるのは宇宙で私だけ!!」
と、果敢に事件に挑んで行きます。
(ロボを必ずつき合わせるのですが……。)
でも、ドラマの方は更にそこから展開して、自分自身と対峙していくのです。
(中学生の魂の成長も描いているわけです… スゴいでしょ!? 観たくなったでショ!? )

物理的に人を救うのは、こっち側が「救った!」と思った時点でコチラ側はそれで終わりますが、
救われた側の方はまだまだ人生が続くわけです。
結局、自分を本当に救えるのは宇宙で自分自身しかいない、というのは
こういった意味からも真理でしょう。
でも、それだけの意味だったら、こんなに気にならないでしょう。
「自分を救おうとしていないのはお前さんだけ!」
と天の声がしたような気さえします。

自分の体のこともそうですが、
また悪くなるんじゃないか……と、ビクビクしていて、
自分の体を信じていない所は確かにあったなぁ……。
私なりに自分のことはきちんと引き受けて責任をもって生きてきたつもりですが、
責任をとるということは、自分自身を信頼し尽くすことでもあったのですね。

自分を救えるのは自分自身だけだからといって、
孤独で孤立している訳ではありません。
ひとりひとりが自分自身を信頼し責任をもって救うのであれば、
ひとりぼっちで孤軍奮闘して頑張っているわけではないからです。
自分自身を信頼しきっているそれぞれであればこそ、
個性が違うだけで、同じように自分を信じ救おうとしている誰もと共感でき、
信頼し合い、リスペクトし合える関係が築けるからです。
(だから、二湖にもロボが必要だったのかもしれません。)

なんだか、スンゴい言葉だったのですねェ。

「私を救えるのは宇宙で私だけ!!」



『世界で一番美しい元素図鑑』


世界で一番美しい元素図鑑



このところ、毎日夜中近くから明け方まで、
体中にガスが溜まって、体が痛んで眠れません。
イイ事ばかり考えて気を晴らすばかりでは、
それに慣れてきて、逆に気がまぎれません……困ったものです。
でも、大丈夫、こういった時に気を晴らすのに最適なものが2つあります。

ひとつは「YouTube」の「数学の動画」で、

1次元から6次元までをグラフィック化した動画を観ること。

http://www.youtube.com/watch?v=Bn7HDBj9ZQQ&NR=1

これは物理学的(時間や質量など)を考慮に入れず、
数学的アイデアだけで作られたものなのですが、

0次元=点から、1次元=直線、2次元=面、
……そして段々と次元が上がってゆく様子が見てとれる動画です。
(6次元まで行くと、また0次元へと戻って行きます。)
わかるような、わからないような……。
ず〜〜っと観ていると頭が真っ白になっていくような、
不思議な感覚になっていきます。

すべての問題は、次元をひとつ上げて見直すとスグに解決するものだそうですが、
肉体的問題も4次元の世界では屁のつっぱりにもならないほど、たいした問題ではなくなるのかもしれない……な〜ンて思えてくるのです。

もうひとつは、9月末の私のお誕生日に連れ合いにおねだりして
10月22日に入手した本。
『世界で一番美しい元素図鑑」を観ることです。

宇宙に存在するすべての元素のポートレートであり、
宇宙の根源の百科事典ともいえる本です。
どの元素にも純粋状態のものと並んで、
私たちが日常生活で見かける化合物や応用製品が美しい写真で紹介されています。
各元素にまつわる様々なエピソードや物語、
各元素の科学的データも詳細にわたり紹介されています。

私たちは、生き物は、地球上のすべてのものは、そして宇宙の世界は、
みんな、これら元素の組み合わせで存在しています。
平たく言っちゃえば、みんな一緒ってことなんですネ。
今流行りの言い方をすれば、「み〜んな繋がっている!」ってコトです。

それにしても美しい、ただただ美しい!!
すべて、何とかなるような気にさせるほど、美しい!
どうして、こんなにワクワクするのだろう。
どうして、こんなに心が震えるのだろう。
すべてを抱きしめて「ありがとう!!」と言いたくなるほど……!
体が痛いのなんて、やっぱりたいした事じゃないような気になってくる……。
(でも、痛いのだケド……ま、もうちょっとの辛抱です……。)

なんだか、自分が宇宙の真ん中を漂っているような気分になってくるのです。
しかも、宇宙の真ん中にいるのに、少しも寂しくないンです。
逆に、すべてに優しくしたくなるような……
まるで、神様気分……!?

音楽を聴きながら、こうして元素図鑑と痛みと共に夜は増々更けてゆく……。

不自由な中にある幸せ♥

体中にガスがたまって、痛くて眠れないので、
気晴らしにイイ事を考えようと思ったついでに、
せっかくだから、それをブログに書こうと思います。
(かなりノー天気ですので、あしからず……。)

前回アレルギーのお話をしましたが、
食べられない物が多いから……と不幸なわけでもありません。
「これは大丈夫かな……?」と探り探りの生活は、
実はかなりのミステリアスさに満ちていて、冒険の日々なのです。
料理も工夫しますしネ。
Khanam(カナム)という素敵なお店とご夫婦とお菓子に出会える、
というラッキーがついてくることだってあるし。

また、病気になってしまって、仕事が出来なくなり、
収入が入らなくなったばかりか、医療費で支出は増えるばかり、
しかも仕事でリースしていた機械のリース料も支払い続けなくてはならず、
かなりの貧乏生活となりましたが(借金もできちゃったし)、
これもまた、だからと言って不幸になったわけでもありません。

引っ越す時に(以前の部屋はちょっと贅沢だったので)驚いたのは、
まぁ、無駄な物を貯め込んでいた事実でした。
それなりに収納があったせいで、何でもとっておき過ぎていて、
逆に「もったいない」ことをしていたのです。
今では、必要な物しか買えないし、大切に使うし、
とっておいて忘れるなんて、あり得ないし……。

今はなんせ、時間はタップリありますからね〜。
いろいろな事に手間や時間をかけることが出来るというのは
実はなかなか贅沢なことだ、と気づいたのも
病気や貧乏と付き合い始めてからです。
もともと私は食いしん坊なので、
旬の食材(旬のモノは安い)を手間と時間をかけて料理することは
楽しいことのひとつなのです。

もちろん、多少の体力がいりますから、
体が私の意思の通りに動いてくれない時は、その楽しみも出来ませんが、
そういう時こそ、忍耐の訓練になります。
どうしようもない時は、文字通り「どうしようもない」のだから、
ジタバタせず、痛みやしんどさが通り過ぎるのを待つしかありません。
痛みやしんどさ、というものは状態であって、私の心や感情の外にあるものだ、
と気づくに到ったのは、病気がなかったら、あり得ないことであったのです。
(気づいた時のことは、またそのうち別に書こうと思っています。)
しかも「こだわらない」ことを身をもって体得出来つつあることは、
何ともありがたいことです。
なぜなら、私はこだわり過ぎるところがあって、
子供の頃はもとより、思春期などは、自分のこだわり過ぎを持て余し、
「如何にすればこだわらずに生きていけるのか……」
が私の大きなテーマでもあったからです。
(こんな形で望みが叶いかけてくるとは……!!)

体が思うように動けない日が続いた後も、動けるようになった時が勝負時です。
動ける時に如何に効率良く山積みの家事ややり残して来たことを済ませるか…と
計画性と判断力を試される時なのです。

また、余った食材を如何にして保存させれば長持ちするのか……、
コレなどはまるで科学実験で、ちょっとワクワクする「研究」でもあるのです。

また、服なども新しいものなど滅多に買えるものではありませんが、
如何に工夫して、ちょうどその時に流行っている雰囲気に近づけるか……
コレも、なかなかのチャレンジのしがいがあるのです。
服が変わらなくても、アクセサリーや髪型で全く違う雰囲気になったり、
安い経費で自分でリメイクしちゃったり、
どうしても必要なものは、オークションで購入したり……と、
冒険とロマンに満ちていて、なかなか楽しかったりします。

不自由な事が多いと、あまり細かいことにウジウジとこだわらなくなってきます。
いや、こだわっているヒマなどないからでもありますが……。
「ま、何とかなるサ」
「なるようになる」
「心配するのは本当にそうなった時にしよう」
「きっともうすぐ大丈夫になる!」
と、どんどんアホになっていきます。

でも、だからといって「不自由バンザイ!」と思っているほど
アホではありません。
不自由な時でも、贅沢が出来た時よりも楽しいことが見つかったり、
気づかなかった大切なことに気づけたり、
人間関係も含めて、いろいろな事の中の本当の姿が見えてきて、
シンプルになっていくことが出来たりすることに
「幸せ」を感じる、ということです。

健康にだってなるつもりだし、
もうちょっとお金だってないと困るし。
諦めているワケじゃありません。
むしろ、何の根拠もなく「良くなるに決まってる!」と思ってマス。

でも、しみじみ思うのは、
お金があって、贅沢が出来る時には確かにそれなりの幸せがあり、
そういう状態でないと得られない幸せも確かにあるけれど、
貧乏だったり病気だったりしていても、
逆にその状態でなければ得られない幸せがあるんだなァ……ということです。

思春期の頃は
「幸せは、幸せだったと気づいた時にはもう過ぎ去っている…」
ナ〜ンて思っていたけど、
実はそんなことはないンですよネ。
よくよく考えてみれば、
私の側にはいつも「幸せ」がいたのです。
だから生きてこれたのです。

どんなに辛い時でも、悲しい時でも、
これを読んでくださった皆さん、一緒に幸せになりましょうネ。
大丈夫、なれますヨ!
だって、いつでも側に「幸せ」はいるから。
あなたの側にもね……!

最近見つけた小さな幸せ……♡♡


カナムの可愛いロゴ


私は、もともと子供の頃からのヒドいアレルギー体質で、特にヒドく出るのが、輸入食品。どうやら、遠くから運んでくるまでに悪くならないように添加されている防腐剤や農薬で出るらしいのですが、コレが出る時はもの凄いコトになります。
食べた瞬間「おや……?!」と何か違和感を感じ、20〜30分後にはブクブクと体中が腫れ上がってきます。
まるで「超人ハルク」か「獅子面病(昔『マスク』という映画がありましたっけ……)」のように顔も腫れ上がって怪物クンになり、咳が出始めたらサァ大変!内蔵の粘膜や喉の内側の粘膜まで腫れ上がってきている証拠で、喉が腫れ上がって窒息したり心臓に負担がかかる前に病院へ急げ……!!ということになります。

ある程度、食べる事を注意するものは元々あったのですが、ココ1年半くらいは、別の体調理由からも食べられない物がさらに増えてしまいました。
トリ肉以外の肉類、生の魚介類、卵、乳製品(牛乳、チーズ、バター、ヨーグルトetc.)が口に出来なくなったのです。パンやケーキ・クッキー、ホワイトソース、洋食etc.は、むしろ大好きでしたので、ショックでした。
(もともと好き嫌いはなく、かなりの食いしん坊でしたので……!)
おやつはほとんど和菓子かお煎餅になってしまうので(それはそれで美味しいのですが、いつもいつもだとネ……。)かなり寂しい気分になってきてしまいます。
また、外食も食べられない物が多過ぎて、一緒の方に迷惑をかけてしまいます。

最近はダイエットする方やベジタリアンの方々のおかげで、大豆食品やダイエット用おやつなど、大助かりの商品もたくさん出回っており、それほど不自由ではありませんが、それでも、コーヒーを飲む時にはふっと洋菓子が恋しくなる時がありました。

それが、1ヶ月前に、西荻窪(ウチから7〜8分の所)にある小さな洋菓子屋さんを見つけたのです。
Khanam(カナム)というとってもカワイらしいお店です。
しかも、とっても可愛らしい若いご夫婦でやっておられます。

khanam〈カナム〉は、テイクアウト専門のお菓子屋さんです

khanamのお菓子は、卵や乳製品を使わず、
すべて植物性の材料を使ってなるべく体に安心な食材を選んで(国産の小麦粉、自然の圧搾法で搾油した菜種油、洗双糖、メープルシロップ、米飴…etc.)作ってくださっており、保存料も使用していないのです。
ケーキなどは夢のまた夢だった私にとって、こんな嬉しいことはありません!
しかも、とっても美味しい!!
チョコレートなどはマイルドなものなど、忘れかけていた味でしたが、ここでなら味わえることのありがたさ!!

このところ、毎週通っていますが、何と言っても、うれしいのが、
お二人の笑顔!!
ほわ〜ンと温かな気持ちにさせていただけて、
お店にいる時間までもが、甘〜いやさしさに包まれて、
何とも幸せな時間なのです。
もちろん、このお菓子をいただく時間も幸せなのは言うまでもありません。

これほどにイイ気持ちになれるのは、コツコツとまじめに物作りをする豊かさを、このご夫婦から感じられるからでしょう。(美味しさにもそれは表れています!)
地道な中にある豊かで優しい創造性……とでも言えばいいのでしょうか、
それは、私たち一人一人にも当てはまることで、
自分自身の人生を創って行く為にきっと必要なこと。
それを毎週このお二人は教えてくださって、
さらには私に、小さな喝をやさ〜しく入れてくださるンです。

そうだ!ひとつひとつ出来る事を喜びをもってちゃんとやらなくちゃ!!
……ってネ。

お近くにお出での際は、是非この小さな幸せを体感してみてくださいネ!

カナムはちゃんとホームページもあって、お取り寄せも出来ます。
http://khanam.petit.cc/

このお店がこれから先、末永く続いてくれて、
更に言えばカフェくらいに発展していただくことを望むばかりです。

お近くにいらっしゃる方、ぜひとも一緒に応援してくださいネ!

スミマセン!今日はダラダラとぼやきます。(かなり長い……!)

久しぶりに日記を書くのに、
ゴメンナサイ!!今回だけは、長々と「ぼやき」を書かせてくださいマセ。
なんだか、そうでもしないと、気持ちがモヤモヤしているものですから……。
(お忙しい方、人のボヤキに興味のない方は読まないでネ!)


一昨日、マイミクさんの日記でちょっとしたやりとりをしたのですが、その時、相手をついやり込めてしまう形になってしまいました……。
やり込める事自体はまぁ、つい熱くなってしまった私の未熟さもあり、反省しているのですが、その後、私に対する異論は皆さん「つぶやき」で(つまり、スピードと共に無責任にすぐ消えて行くツールの中で、私が気づかないウラ側で)ガンガン言っていることに気がついて、かなりガックリしてしまいました。
そうか……そっちから問題提起はしたもののディベートする気はないってことなのネ……。

私は、意見の違う人と議論することはとてもイイ勉強になると思っています。
(それこそ、ハーバード大のサンデル教授じゃないけれど)
議論をしたところで、どこまで行っても平行線のままかもしれなくても、
語り合うことで(自分とは違う考え方があることを知ることで)自分の中も見えてくるし、社会の中での自分の位置も、今ある社会自体も見えてくると思っているから。
ましてや、自分の考えを相手にわかってもらおうと努力することで、自分の考えがどれだけしっかりしたものなのか否かすら見えてくる。
こうしたことはすべて学びだし、違うことや知らなかったこと、新しい考えに触れる事もワクワクしてくるンです。
……でも、それを望んでいない人の方が多いんですネ。
そうした方々は自分のプライド(?)を守ることが一番大切なのでしょうか……。

事の発端はつい最近あった裁判員制度のことです。
あるマイミクさんがご自分の日記で裁判員が量刑を決めることと死刑制度の是非をワンセットとして語ったことに対して、
裁判員が量刑を決めることに反対している方が、死刑制度の是非論と裁判員が量刑を決めなくてはならない問題とは別々に考えるべきだ、と語ったことに私が異を唱えたことからでした。(その方は死刑制度に対しては賛成論者でした。)

私の考えはこうです。
今までの「法律は専門家にすべて任せておけば良い」という考え方自体がおかしかったのではないか。専門家も一般市民も同じ人間なわけですから、同じ価値観を共有する中で法律は粛々と守られて行くべきものなはず。
法律も犯罪に対する量刑も共に私たちの生活の一部であり、私たちが作って来たものである、という自覚と意識をもつことは、とても大切なことではないのか。
その覚悟において、自分が量刑を判断する立場に立ちうる可能性もふまえた上で死刑制度の存続か否かを語るのは大切なことではないか……と。
だからワンセットにして考えるべきではないか……と。

それほどに自分で引導を渡すことが出来ないようなことなら、専門家と言えども生半可な神経では出来ることではない、ということになりますよね。
それだけ重たい事を自分は専門家じゃないからしたくないけれど、死刑制度は必要で、専門家が引導を渡せばイイ……という考え方は、私にとっては不思議で仕方がないのです。
他人(たとえ専門家であっても同じ人間です)が裁定を下すのなら死刑はOKで、自分が下すとなると罪の意識が重たすぎて出来ないのであれば、
死刑制度はあってはならない量刑だということになり、死刑制度に否と唱えるべきではないか、とさえ思えるのです。
これって、自分さえ良ければよくて、それ以外の面倒なこと(社会)は都合良く他人任せにしているようにさえ感じてしまう……。

自分が今いる世界(社会)で起こっている総てのことには、何らかの責任が私自身にもあると思っています。
ですから、病人で半人前の私ではありますが、自分の意識や考え、行動、発言には責任をもって生きているつもりですし、常にそうありたいと思っています。
(だからと言って、出来ているわけでもないのは残念なところですが…。)
本当に必要だ、と思うのなら、自分自身でも責任をもって出来ることでなくては、おかしいと思う。(何も直接手を下して死刑にしろ、と言っているわけではないし。……でも、死刑って、必ず「誰か」が手を下すことにはなるわけですケド……)
死刑制度の是非論は更にややこしくなってくるので、ここで語るつもりはありませんが、
今法律として存在している事は私たちが必要だと思ってきたから存在するんでしょうから、法改正するまでは、その法の下に生きるしかありません。
それは必然として受け止めるしかないでしょう。
ましてや、心ならずもであったとしても、犯罪を犯して社会のルールを破ってしまったら、その人は犯した犯罪に対して責任をとって償う義務が生じるのは当然のことですから、その時に見合った量刑を受けるしかありません。
その見合った量刑というものを、一般市民の感覚で見直す必要があるのだと思います。

ですから、量刑を素人である一般市民が決める、ということは、私にとっては画期的な事だと思っていました。(量刑の問題提起となるから)

自分が裁定を直接下すことになった時に重い量刑を科すことが「恨まれそうで怖くて出来ない」と思うこともあるでしょう。でも、もしそれ以下の裁定を下すしかないと、判断するのなら、「恨まれそうで怖いから」が理由だとはっきり言って裁定を下したら良いと思うんです。
でも、きっと実際にそう思っても、はっきり口にする人はいないでしょうネ。
それは何故でしょうか?
怖れなどの自己防衛感情が過ぎていて社会的判断ではない、これでは公正な判断とは社会はとってはくれないのでは…とどこかで感じているからではないでしょうか?
私たち一般市民は、量刑の裁定を個人的感情でとらえ過ぎてしまうことが問題だと思うのです。
そこから一歩前に出て社会的な自分と向き合うことが大切なことだと思います。
それは、人任せにしている社会から、自分が関わっている社会へと自分の意識が変わるからです。
今まではそんな裁定を仕事とはいえ、同じ個人的感情も持っているであろう専門家にすべて委ねていたわけです。
専門家は「プロフェッショナル」として個人感情を押さえ込んで客観的になろうとし過ぎ、しかも新しい判断を下した後の責任の重さに耐えかねて判例主義に偏り過ぎたからこそ、時には常識を疑う裁定(一見もっともらしくはあっても)が下されることすらあったのではないでしょうか?
それを、市民意識にもう一度戻す必要があると思うのです。
はじめは、いろいろと問題も起こるでしょうが、始めなくては何も変わらないのではないかしら……?
裁判員制度がそういった意識で始まったのかどうかはわかりませんが、私はこうした必要性で始まったのかと、勝手に思っていました。
「恨まれるのがコワい……」といった個人的感情でではなく(そういった感情が出るのは当然ですが大人としてさらに踏み込まなくては大人の甲斐がないし)、
自分自身の社会的意識の常識をもって自立した意識で量刑の裁定をすることは、自分と社会とのつながりや社会への責任を見直す素晴らしいチャンスになると思うのです。
私たち一人一人が社会を人任せにしない意識をもつ必要性を強く感じます。
それこそ、個人としての意識の自立が必要だと思います。

自分がやりたくないこと(ちょっとした責任が伴ったり、重い気持ちになりそうだったり、文字通りキツいこと)は「その道の専門家がやればイイ」と自分から切り離して他人任せにしておいて、任された人が「それなら‥‥!」と自分の都合の良いようにしはじめて情勢が悪くなったら(解決策はやっぱり人まかせにするくせに)、非難・糾弾に走るのって、無責任で混乱を増やすばかりだし、どーしたいの!って言いたくなりません?
なんだか寂しいし、ものスゴく残念……。

自分が社会の一員である、という意識をもつということは、実はすべてのことと関わって今自分はココに居る、という意識をもつことだと確認する。素晴らしいチャンスだと思うんです。

こうしたことを語り合うことから逃げてしまうのって、自分自身から逃げてしまうことにもなるのでは‥‥と思えて残念でならず、長々とぼやいてしまいました。

最後までお付き合いくださって深く感謝します。

無限なるゆるしと可能性と希望を込めて……………。
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