ぼちぼちいこか
病気療養中だけどぼちぼち明るくいきたいネ♡

チェンバロのコンサート

昨日、家喜美子(いえきよしこ)さんと仰る方のチェンバロのコンサートに行って来ました。
家喜美子さんは34年間オランダに在住されていて、ヨーロッパを中心に演奏活動もなさっていらした方です。去年、拠点を日本に置き直すことになさったそうです。(現在東京在住です)ちょうど日本に帰国なさってすぐくらいの時に、9月に富士に行く時に知り合いの方の車に乗せて頂いたら、同じ車に同乗なさっていたのが家喜さんでした。
行き帰りの間中ずっとお話ししても飽きないくらい楽しくて、その後、何度か御会い出来る機会もあり、コンサートに行かせて頂いたのです。

CDでは拝聴させて頂いていましたが、ライブはケタ違いにモノ凄かった!!
あまりに素晴らしく凄いので、私はちょっと別の所へ連れて行かれてしまい、昨日はご報告出来る状態ではなく、ご報告が遅れてしまいました。
思い出しても頭がちょっとクラクラして、涙ぐんでしまいます・・・
・・・ちょっとヤバイかも・・・。
とは言え、今日になっても、言葉に尽くし難いモノがあり過ぎて、どう凄かったのかをどうやってお伝えしたらイイのかさえわかりません。

特にバッハの曲は素晴らしくて、
音のひとつひとつに人生の様々なドラマが込められているような、
不思議な程の物凄い慈愛を感じました。

でね、家喜さん御本人がコンサートのしおりにバッハの「フランス組曲」について書かれている文章があったのですが、
「「フランス組曲」は・・・(中略)・・・あたかも、「深い悲しみの昇華が慈愛である」と語りかけているような作品である」とあり、
まさしく、おっしゃっているそのままを音楽として私達に差し出してくださっていて、またまた感動している私です。

5月にまたコンサートをなさる御予定のようですから、
もし、この私の訳のわからない感想にでも興味を持たれた方は、是非ともコンサートに足をお運びになってください。(その時はまたお知らせしますので)

ンじゃ、また。
スポンサーサイト

無理をしない勇気

個人的メッセージのやりとりで、
某人物の「無理をしていることに気づいたので、参加したかったけれどやめました」という言葉にずっと今日は気持ちを奪われていました。

私はヘタレの割に調子コキで、すぐ調子に乗って舞い上がり、気づくとかなりの無理をしていて、身体が悲鳴を挙げ、更には気持ちもドーンと落ち込んでしまう、
という情けないてん末を何度も繰り返す所があります。

調子に乗ると欲張りになって、「もっともっと!」と思ってしまう。
その度に連れ合いから「また!」と叱られます。

無理をするということは、自分も傷つけるし、周りも傷つけてしまうことがよくあるのは重々わかっているのに、舞い上がっていると都合のイイことを都合良く考えて、自分にも嘘をついているんだと思います。

「無理をする」ってどういう時か、って考えてみたら、
イイ所を見せたくて力んでいる時だったり、
何とかしたいと思って力んでいる時だったり、
欲張って(イイ意味でもそうでなくても)力んでいる時だったり、
結果を直ぐに出そうとして焦っている時だったりします。
大抵「力んで」いるんです。

力むと身体の動きもギクシャクして、あちこちが凝り固まって、自由じゃなくなる。
きっと心も自由じゃなくなっているんでしょう。

「無理をする」時は「自分が自分が」という想いに囚われて、自分が総べてを見通していて自分の肩に総てがかかっていると思い込んでいる時に陥るンだと思う。
でも、きっとそれは違っていて、大きな力で進んでいる中での自分の所にやってきているモノを「分を尽くし」てやっていければイイものなのでしょう。

リラックスして、素直な心でありのままでいたい、と前回書いたけれど、
その為には、「無理をするのはやめよう!」と思う勇気が必要なんだな、
としみじみ感じた次第です。

ンじゃ、また。

急に想った。

もともと文章を書くのが大好きで、
本を読むのも大好きで、
大学を卒業した後、はじめは某出版社に契約社員で入社しました。
事務系の仕事に移動しそうになっていた頃、
会社(渋谷にあった)のソバで学生時代に同じサークル(JAZZ研)にいた友人とバッタリ出会い、彼が今通っているというデザインの専門学校に遊びに行ってみたら、「第二部(夜間部)願書受付 本日まで」の貼り紙を見て、
何の考えもなく願書の申し込みをし、1週間後に試験を受け、その専門学校でグラフィックデザインを学んでいました。
さすがに両親はお金を出す気にはなってくれないので、
出版社を辞めて、昼は出版物の校正の仕事をしながら夜間は専門学校への日々を2年間すごしました。
イヤ~、学費を自分で出すとなると、真剣さが違いますね。
一番真剣に勉強したし、充実していたかもしれません。

何年かデザイン会社にも務めましたが、
4~5年後にはフリーでデザインの仕事をしていて、
病気で眼を悪くするまで(6年前)まで仕事してました。

私は急に想うコトがあると、気が付くと動いているコトがよくあります。
友人には
「いつ死んでも不思議には思わないけど、餓死する前には相談しろ」と言われたことがあるほどです。

で、タイトルの話ですが、
今日、突然おかしなことを思いました。

先が見えなくても、
見えないからこそ、
私は幸福なんだ。
見えないモノを信じて前に進むことが出来るから。

何もなくても、
何もないから、
私は幸福でもあるのかもしれない。
何にも捕われずに
実はこんなに自由だから。
(でも、お金は欲しいデス)

翼がなくても、
翼がないからこそ、
私は幸福なんだ。
実在の翼では行く事の出来ない彼方まで、
瞳を閉じれば飛んで行くことが出来るから。

欠点も良い所も、天が観ていると想えば素直になるしかなくて、
この欠点であっても、天は役に立ててくださるのだ、と想えば、
あるがままでいればいいのかもしれない。
もしかしたら、そのコト自体が大いなるギフトかも・・・。

なんて、支離滅裂でスミマセン・・・。

あまりの絶望で両手を高く挙げる力さえ失った時があり、
その時出来ることと言えば、両手を合わせることが精一杯でした。
その時「祈る」ことしかできない・・・と想いながら、
逆に「祈る」ことこそに、大きな力を感じ、
私の生活は「祈り」が中心になっていき、早11年になりました。

状況がさほど良くなったわけではないのに、
どういうわけか、自分の中はかなり変わったように思います。

ンじゃ、また。

ぼちぼち行きます。

今までは登録だけして、そのままダラダラと過ごして来ましたが、少しづつでも、何か書かせていただこうと、一念発起しました。

ジェットコースターのような49年間で、真直ぐに進めたコトがない上に、
離婚経験はあるわ、大きな病気はしているわ、
犯罪被害者の家族である上に、加害者の家族でもあったり、ビンボーだったり、
とにかく、もしかしたらものスゴイ体験をたくさんして今日のいまココがあるのですが、それなのに「アァありがたいなぁ」と感謝する日々を送らせて頂いています。

それが何故なのか、ぼちぼちわかって頂けたらうれしいです。

ちなみに、私が最近かなり気に入っている言葉を最後に御紹介します。

「ロボの言う通り、私はずっと自分の味方でいようと思う。
 なぜなら、私を救えるのは宇宙で私だけだから。」

これはマンガが原作になっている日テレのドラマ『セクシーボイス アンド ロボ』の最終回の最後の言葉です。このドラマ、久々の傑作だと思ったのに、視聴率はかなり低かったンですってネ。

これからもよろしくお願いします。

無限なる感謝!!

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。